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山田五十鈴讃

蓮實重彦

映画についてならいくらでも言葉をつらねることができると自負していたはずなのに、こと俳優となると、それをどう語ればよいのか皆目見当もつきません。とりわけ女優の場合、言葉を組織すべき方法のまったき不在にただ戸惑うばかりです。

それが映画評論家の傲慢さといわれればそれまでですが、一方では、役者など、たんなる被写体にすぎないという侮蔑に近い思いが頭をもたげます。他方、作品の成立にみずからの肉体を提供し、監督の意向にそってそのイメージをいかようにでも変容してみせるという存在の同一性をいったいどのように把握すればよいのか、心もとない気もします。

実際、芸名である山田五十鈴という固有名詞が、その肉体とイメージのどこまでをカヴァーしているのか、正直なところよくわかりません。この固有名詞が指示しているはずのイメージなら何度も見ているはずなのに、その変幻自在な多様性は、とても一つの肉体におさまりそうにないからです。

この戸惑いは、ことによると、亀井文夫監督の『母なれば女なれば』(1952)や『女ひとり大地を行く』(1953)で初めてこの名前の女優を意識した世代に特有なものかもしれません。伊藤大輔監督の『おぼろ駕籠』(1951)や『大江戸五人男』(1951)などもほぼ同じ時期に見ているはずですが、現代劇である亀井作品での「汚れ役」のイメージが強烈で、みごとな髷を結い、あでやかな和服姿で江戸時代の女を演じている伊藤作品の同じ名前の女優がそれと同一人物であることが、にわかには信じられませんでした。

成瀬巳喜男の『流れる』(1956)や小津安二郎の『東京暮色』(1957)を初めて見たときも、この女優が高峰秀子や原節子の母親であることがどこか不自然に感じられ、納得しがたいものが残りました。いまならまったく別の反応をしめすはずですが、20歳になるかならないかという青二才がそんな感慨をいだけたのですから、贅沢な時代だったのかもしれません。

山田五十鈴という芸名の女優が文句なしに「凄い」と思われたのは、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』(1957)に能面のようなメイクで登場し、マクベス夫人の狂乱を演じたときでした。正直、「凄い」と思いました。これでは、三船敏郎のマクベスも太刀打ちできまいと感じ、それを承知で山田五十鈴にこの役を託した黒澤明の残酷さに目を見はりました。日本の映画史には、黒澤明によって山田五十鈴の並外れた才能に目覚めた世代がまぎれもなく存在しているのです。



1950年代の後半に20歳だった青二才が山田五十鈴の真の「凄さ」を発見するのには、それから20年近い歳月が必要でした。ようやくその頃になって、溝口健二の1930年代の作品をぽつりぽつりと見ることが可能になったからです。傑作というほかはない『浪華悲歌』(1936)と『祇園の姉妹』(1936)の2本を見るにおよび、二十歳になったばかりの山田五十鈴の素晴らしさに言葉を失いました。そして、この2本が撮られた年に生まれたことを、自分だけに許された幸福だと快く錯覚し始めたのです。

これまた青二才のくせによくそんな態度がとれたと思うのですが、国際的な評価の高まりにもかかわらず、自分は1950年代の溝口健二の作品に心からのめりこむことができないと広言していた時期があります。理由は、溝口健二が何度か主演女優として迎えた田中絹代という女優が、ミスキャストのように思えてならなかったからです。

勿論、『西鶴一代女』(1952)の彼女は文句なしに素晴らしい。だが、『お遊さま』(1951)でも、『武蔵野夫人』(1951)でも、『噂の女』(1954)でも、田中絹代の存在が、年齢的にも、また演技の質において、どうもしっくりこない。『山椒太夫』(1954)の最後にフランスの監督たちが熱狂していたときも、彼らには田中絹代の訛のある台詞まわしがわからないからだといい続けていました。

ひとりの異性としての田中絹代に対する監督溝口健二のただならぬ執着を知らなかったわけではありません。にもかかわらず、いまなおミスキャストの印象は拭えず、田中絹代に迷っていた1950年代の溝口を救ったのは、木暮実千代と香川恵子という二人の女優だと信じ続けています。青二才のそんな確信を許してくれる1950年代は、やはり、贅沢な時代だったというべきでしょうか。

1930年代の溝口健二と山田五十鈴のあいだには、この種の齟齬感はいっさい生じません。最盛期の映画作家と最盛期の女優とが、二度と起こりえない幸福な遭遇をそこで演じているとしかいえぬからです。その前の年に原駒子と共演した『マリヤのお雪』(1935)だって素晴らしいのですが、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』の2本は、かりにその直後に溝口が死んだとしても、それだけで世界映画史に残る傑作たりえていると思います。リアリズムという言葉では括りえない肉の存在感ともいうべきものが、画面にみなぎっているからです。

成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』(1938)で始まる長谷川一夫との「黄金のコンビ」についても触れておくべきでしょうし、それがマキノ正博監督による卓抜なハリウッド映画の翻案である『昨日消えた男』(1941)や『待って居た男』(1942)を通してふたたび成瀬の『芝居道』(1944)に行きつくまでをたどりなおしてみたい気もします。にもかかわらず、あえてそれを自粛せざるをえないのは、女優を語るにふさわしい方法を持たない者の言説が、とどのつまりは、あれもよい、これもよいの自堕落な羅列に終わるほかはないからです。

実際、『鶴八鶴次郎』のあのシーンの山田五十鈴の「ねえ、お前さん」という台詞まわしはどうだ、とか、『歌行燈』(1943)のあのシーンの山田五十鈴の腰の動きはどうだ、とか、『芝居道』のあのシーンの山田五十鈴のものいわぬ横顔はどうだといった賛辞の羅列ならいくらもできますが、それがどうしたといわれれば、黙って引き下がるしかありません。

そもそも、『母なれば女なれば』で山田五十鈴を知った世代の人間は、12歳でデビューの年に日活太秦で撮られた伊藤大輔監督の『素浪人忠彌』(1930)や池田富保監督の『忠直卿行状記』(1930)、その翌年の内田吐夢監督の『仇討選手』(1931)も、2年後のマキノ正博監督の『白夜の饗宴』(1932)も、3年後の山中貞雄監督の『盤嶽の一生』(1933)も見ることができないのです。方法を欠いているうえに、体験すら欠いている者に、はたして山田五十鈴が語れるでしょうか。 体験を欠いた者に可能なことは、ふと耳にしたエピソードの芸もない羅列にすぎません。それをも自粛せざるをえないのですが、升本喜年の新著『紫陽花や 山田五十鈴という女優』(草思社)の冒頭に語られている渋谷実監督の『悪女の季節』(1958)の撮影風景のことだけには触れておきたく思います。この映画の入浴シーンで、すでに40歳を超えていた山田五十鈴は、水着姿でセットに姿を見せ、撮影の瞬間にはさっと胸をはだけ、フレームに入るはずもない乳房をまぶしくキャメラにさらして湯船から立ち上がり、スタッフの驚愕を無視するように、顔色ひとつ変えなかったという。

思えば、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』の20歳の山田五十鈴は、衣装をまとっていながらも、その幼い乳房を思い切り視線にさらす覚悟で胸をはり、腰をしっかりと決めてキャメラの前に立っていたのでしょう。その誇らしげな女体の誇示こそ、演技を超えた女優の生々しい存在感にほかなりません。1936年の溝口健二は、そのまぎれもない女の「誇り」を受けとめ、それにふさわしい確かな演出で誇示された女体をフィルムにおさめてみせました。スクリーンが平坦な幕でしかないことが嘘だというかのように、そこでの山田五十鈴は、豊かなボリュームをもって画面を揺るがせている。それは世にいう溝口健二の「リアリズム」などとは無縁の、映画には二度と起こらない「奇跡」なのです。

「二・二六事件」の年として記憶されている1936年には、それを遥かに超えた「奇跡」が起こっているとしかいいようがありません。嘆かわしいことに、その「奇跡」を語るにふさわしい言葉を、人類はまだ手にしてはおりません。『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』は、やはり、戦時期の昭和にはすぎた贅沢だったのでしょうか。



初出:中世の里なみおか映画祭 2004年パンフレット